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廿日市市

 廿日市市は、広島県の南西部に位置し、南は瀬戸内海から北は中国山地まで、日本の縮図ともいえる多様な地域特性と、世界遺産「宮島」をはじめ、歴史・文化・交流など多彩な魅力や資源が溢れるまちです。

 吉和地域、佐伯地域、廿日市地域、大野地域、宮島地域の5地域によって構成される現在の廿日市市は、律令時代から「佐伯郡」という一つの郡域に属しており、12世紀中ごろには「佐西郡」として、より一体的な圏域を形成していました。

 特に、これらの地域は嚴島神社社領でもありました。

 本市の市名は、現在の中央市民センター周辺(本町)で室町時代中期以来開かれていた「廿日の市(はつかのいち)」に由来します。

 嚴島神社の年4回の祭礼の最終日がいずれも20日であったことから、毎月20日に市が立つようになり、二十日の市=「廿日市」という名称が定着していったと考えられています。

廿日市市HPより)


十王堂

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 かつて、島根・津和野から参勤交代で江戸にあがるために使われていたという、廿日市に抜ける山の街道・津和野街道。 廿日市・津田を通 っていたこの街道の、中間の宿駅として知られていたのが、 津田十王堂です。

 現在ではかつてから場所をうつされ、西福寺の横にあります。小さなお堂の中には、人の生前の罪を裁き、 地獄や極楽にいくのかを決定す る、秦廣王、初江王、 宋帝王、 五官王、 閻魔王、 変成王、 泰山王、 平等王、 都市王、 五道転輪王の十人の裁判官の像が置かれています。

帯掛明神と重なり岩

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 厳島神社に祀られている神様のひとり、市杵嶋姫命は、出雲から厳島へ向かう際、乳飲み子を背負っていたそうです。その途中立ち寄り、体を休めたのがこの岩だったとされています。この時岩に帯をかけたことから、この岩は「帯掛岩」とされ、市杵嶋姫を祀って、帯掛明神としたそうです。

 また、この岩は昔、大地震で下の路に落ちたときも、そして参勤交代で通りかかった殿様が、危険だとわざと上から落とした際も、翌日には元の位置に戻っていたという伝説が残っています。

教覚寺の茅葺き山門

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 元禄元年(1688)の建築と伝えられる、廿日市・津田の永泉山教覚寺の山門。

 廿日市市の重要文化財として知られる観光名所です。桁行2間(3.6m)梁間1.5間(2.7m)の茅葺きの木造門は、威風堂々たる佇まいに圧倒されるほど。300年を超えて建っているその佇まいは、離れて見るとさらに圧巻です。

 鐘楼は桃山様式といわれ、禅宗寺院の形式に近く、栃木県稲田の禅房の門と同じ様式といわれています。

佐伯アーチェリー

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広島から車を走らせて約50分の廿日市市津田の町にある佐伯国際アーチェリーランドは中、四国 地方で唯一のフィールドアーチェリースポット!

オーナー自ら山を開いたフィールドコースは、国際規格。野鳥のさえずりや小川のせせらぎも楽しめる林の中にあり、春は桜、秋は紅葉で賑わいます。ターゲットコースも30m~70mまで対応可能。初心者からベテランまで対応しています。

また近年は森をもっと活かして、アーチェリーだけでなく様々なアウトドアアクティビティに挑戦できる施設として整備を始めています。それによって特に団体でご利用の方には1日を通して楽しく過ごしてもえるようにプログラムという形で、プランを提供しています。

船屋敷跡の石碑

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石見国(島根県)津和野藩主である亀井家は、江戸時代に大名の重要な勤めであった参勤交代などの往来に際して、津和野街道を東上して廿日市に宿泊し、ここから海路をとって室津(兵庫県御津町)へ上陸した。

この廿日市の中継居留地が津和野藩御船屋敷で、桜尾城跡の西側一帯に設けられていた。

津和野藩船屋敷跡旧図

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船屋敷には御殿をはじめ船蔵・土蔵・定詰屋敷などの諸施設が建てられ、元文元年(1736)頃には船屋敷には93人の家中が居住していた。また、この頃廿日市の御船入りには、津和野藩の関船・小早船・荷船など併せて23隻が係留されていた。この中には御紙船も含まれており。吉賀地方で産出されていた石州和紙搬出の中継地としても、船屋敷は重要な役割を果たしてきた。

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