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名所・旧跡

街道沿いの、代表的な名所・旧跡をご案内します。

(​名所・旧跡は地域案内の中でも紹介しています。)

街道の歴史

 中世には里道として近隣住民の往来に利用されていた。戦国時代の1554年(天文23年)、西国の一大勢力であった大内義隆の側近陶晴賢(部将宮川房長)と毛利元就との間に行われた折敷畑の戦いの主戦場となった道である。毛利方は周防国玖珂郡の小瀬・御庄(現岩国市)で陶軍と交戦し、津田・汐見坂峠を超えて進軍した陶軍を毛利軍は明石(いずれも現廿日市市)で迎え撃ち圧勝した(ただし折敷畑の戦いそのものが存在しなかったとする学説もある)。

 江戸時代に入ると津和野藩の参勤交代経路とされた。当時、西日本の大名の参勤交代は船で瀬戸内海を移動する方法が最も時間的・経済的に負担が少なかったため、内陸の津和野藩は廿日市本陣の近く(現・広島県廿日市市桜尾本町)に「津和野藩御船屋敷」を構えて船による参勤交代を行った。津和野藩は1620年(元和6年)に桜尾城西側の土地を広島藩から借りて蔵屋敷を建て、1736年(寛永元年)に御船屋敷を整備している。この御船屋敷を拠点として、特産の石州和紙や木材等の交易で街道は賑わった。

 幕末の1867年(慶応3年)、信徒発見を機に長崎で大規模な隠れキリシタン弾圧事件が起きる(浦上四番崩れ)。ほどなく江戸幕府は瓦解するが、明治新政府は当初キリスト教禁教政策を引き継ぎ、中心人物を処刑した上で信徒を含む浦上村民3,394名全員を津和野・萩・福山ほか全国に配流した。廿日市の津和野藩御船屋敷には信徒など153名が到着、津和野街道を約90キロメートル歩いて津和野・乙女峠の光琳寺に幽閉された。以後1870年(明治3年)まで流刑された村民は日夜拷問され、36名が信仰を捨てずに殉教したという。日本はすでに開国後で外国人相手の教会もあり、岩倉使節団が欧米の訪問先でことごとく禁教政策を厳しく非難される中での悲劇であった。

​(Wikipediaより)

石畳の道

​津和野街道とは

 津和野街道(つわのかいどう)は、江戸時代に整備された街道。

 江戸時代に石州津和野藩の参勤交代の経路となり、脇街道として整備された。西国街道の安芸国廿日市宿の西で分岐し御手洗川に沿って進み、周防国を通り石見国六日市を経て津和野城下に至る。街道の距離は江戸時代の実測で18里18町2間(約73km)だった。峠越えが続く険しい山道だったが、旧道のうち平地部分は1891年(明治24年)に改修されて広島県道となり、現在は広島県道30号廿日市佐伯線や国道187号ほか島根県道等となっている。

津和野街道地図
太皷谷稲成神社

 太皷谷稲成神社は安永2年(1773年)に津和野藩主7代亀井矩貞(かめいのりさだ)公が津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するため、三本松城(津和野城)の鬼門にあたる東北端の太皷谷の峰に、京都の伏見稲荷大社から斎き祀ったのが始めです。

 以来、歴代の藩主の崇敬が篤く、明治の版籍奉還に至るまで、藩主亀井家の祈願所として維持され、藩主以外の参拝は禁止されておりましたが、廃藩後は広く一般庶民も参拝できるようになりました。

​永明寺

 歴代城主の菩提寺でもあった曹洞宗の寺で、茅葺き屋根の本堂は安永8年(1779)庫裡(くり)・鐘楼(しゅうろう)などの建物は安政6年(1859)に再建されたもの。県指定有形文化財。

 境内地は、国史跡「津和野藩主亀井家墓所」の一部として指定されており、亀井家の分家である高崎亀井家墓地や、家老多胡家墓地があります。

 その他に初代津和野藩主であった、坂崎直盛の墓や、明冶の文豪、森鴎外の墓もあります。

​(津和野町HPより)

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​吉賀町蔵木地区

島根県の西端に位置する吉賀町は、中国自動車道のインターチェンジを有する西の玄関口です。その吉賀町の東側の山あいに蔵木地区はあります。水質日本一にもなった一級河川「高津川」の水源地にあたり、蔵木地区は高津川に沿うように細長く広がる地域です。水源地には樹齢千年以上ともいわれる一本杉があり、毎年6月には古来より行われていた雨乞い神事に由来する「水源祭り」が行われています。藁で編んだ大蛇を担いで水源の「大蛇が池」に飛び込み、一本杉に巻きつけて雨を願う勇壮な祭りです。
春になると山の斜面にカタクリの花が自生する「カタクリの里」が一面花のじゅうたんになり、カタクリ祭りが行われます。また、彼岸花が約3ヘクタールの平坦地全体に咲き誇る「ひがん花の里」もあり、9月頃には遊歩道を散策しながら真紅に染まる景色を鑑賞できます。

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​街道の石畳

栗栖で小瀬川を渡ると、津和野街道はいよいよ本格的な山越え道に。ここから悪谷(あくたに)に至る約4.5kmの行程は、渓流沿いに苔むした石畳の道が続き、観音堂や観音滝、茶屋床跡、かご立て岩などの見所が次々と現れ、季節とともに山野の花も目を楽しませてくれます。並行して走る車道も無い静かな古道は、まさに往時の旅人が感じたのと同じ風情を存分に堪能できる街道ワーキングのハイライトです。

津和野城跡

 津和野城は鎌倉時代末期に地頭として赴任してきた吉見頼行公によって築城が開始され、息子・頼直公の代(1324年)に完成しました。その後、江戸時代初期に初代津和野藩主となった坂崎直盛公が近世城郭への大改修を実施、坂崎氏改易後は亀井政矩公をはじめとする亀井氏の居城となりました。

 明治の廃藩置県に際し、他藩に先駆けて廃城となりましたが、現在は国指定史跡及び日本100名城に認定され、島根県有数の観光名所として多くの来訪者を迎えています。

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