津和野町
津和野町は島根県の西端にあり「山陰の小京都」と称される町です。
地元出身の文豪森鴎外の記念館やわが国初めて西洋哲学を紹介した西周の旧居、日本五大稲荷の一つ太皷谷稲荷神社等のある歴史の街です。
一方で、豊かな森林やダムのない日本唯一の一級河川・高津川等の自然にも恵まれれており、こうした環境の中で生産されるわさびや山菜、栗、サトイモ等の農産物は高い評価を得ています。
高津川は2007年、2008年と2年連続で国土交通省の一級河川調査で全国一と認定された誇りであり、鮎やツガニ等の川の幸の宝庫となっています。
(津和野町HPより)
初午祭
伏見稲荷の大神様が和銅4年(711年)京都伏見の稲荷山の三ヶ峰にお鎮まりになったのが、如月きさらぎ(2月)の上かみの午うまの日であったことから、この日を稲荷神社の御縁日として、全国の稲荷神社で初午大祭が執り行われています。
稲荷の大神が山より里にお降りになり、農業を始め産業の御指導をして下さると言われ、『今昔物語』にも、この初午の日に稲荷詣をした人の多いことが記されています。
この日参詣することを「初午詣はつうまもうで」あるいは「福まいり」「おかげまいり」とも称し、古くから歌に詠まれたり、物語にもなったりした初春第一の大祭です。(写真は「狐の行列」)
(太鼓谷稲荷神社HPより)
流鏑馬神事
鷲原八幡宮流鏑馬馬場は、江戸時代までの文献はなく詳細は不明ですが、1568年(永禄11年)城主・吉見正頼が八幡宮再建のさいに造られたと伝わり、室町時代構築の流鏑馬馬場とされます。
津和野藩最後の藩主・亀井茲監の業績をまとめた以曽志乃文庫:神事流鏑馬聞書によると、天下泰平、五穀豊穣を祈願する神事として、小笠原流により江戸時代に盛んに行われていましたが明治以降に途絶えたとあります。
(Wikipediaより)
鷺舞神事
鷺舞は津和野の弥栄神社に伝わる古典芸能神事です。毎年祇園祭りの7月20日は町内11ヶ所、27日は町内9ヶ所の昔から定められた場所で舞います。
鷺舞は天文11年(1542)に時の津和野城主吉見正頼(11代)が山口の祇園会から移し入れた芸能神事ですが、本元は京都の八坂神社祇園会に伝えられたもので、京都から山口へ、山口から津和野へと伝えられました。
坂崎出羽守の時代に一時中絶しましたが、亀井氏の時代になって茲政(2代藩主)は、寛永20年(1643年)坂田兵左衛門、柴屋彦両人を京都に派して京都祇園会の鷺舞を直接習得させ、今日まで受継がれています。
(津和野町観光協会HPより)
津和野踊り
黒い頭巾をかぶり、静かに舞い踊る姿を見て、初めて見た人は「まるで忍者だ」。
そう思うかもしれません。
でも、その発想はあながちハズレではありません。
この津和野踊りは、敵城を落とすために、初代藩主の父である亀井茲矩(これのり)が衣装、所作、音曲を考案した踊りだと伝えられています。
知略で戦に勝った記念の踊りとして、お盆に踊られるようになったこの踊りは、1617年に亀井政矩が津和野藩主になってから今日まで、ずっと津和野の地で踊られ続けています。
(津和野踊りHPより)
堀庭園
津和野の町中から山間に向けて約8キロ。かつて石見銅山で繁栄した豪族堀氏の名園があります。
おすすめは書院造りの客殿「楽山荘」の二階から中央にある庭園 を眺めた様子。ぐるりと囲まれた木々と池からは凛とした空気が張りつめ、これ以上にはないほどの静寂があふれています。
秋には特に紅葉が彩りを添えます が、季節折々の風景が楽しめます。
(津和野文化ポータルHPより)
乙女峠
駅の裏手、光明寺脇を谷川に沿って200mばかり登るとマリア聖堂です。
谷あいは木漏れ日と谷川の音だけです。
お堂は廃寺光琳寺の跡に建っています。ここに改宗を迫られた浦上のキリシタン信徒が捕らわれ多くの人が殉教しました。